野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
予てから山田詠美という作家を愛好しており、出回っている著作も概ね全て読了した。山田は、同時代の女流作家としては異例にも大学入試センター試験の課題文に採用され、江國香織をはじめとした多くの作家がその影響を蒙ったことを認めている。芥川賞の選考委員も務め、アカデミズムと論壇の双方で高く評価されている代表的作家の一人。と、いった風な話はどうでもいいのだが、個人的には大江健三郎、山田詠美、平野啓一郎あたりの系譜(というのは大袈裟だが、時流として)を眺めるにつけて、才能の何たるかを考えさせられる。同時代性というものを意識するに、やはり時代を牽引するというのは相当に大きな仕事ではあるらしい。
物事の好き嫌いを語るにあたり、先ず以て感情、或いは空気感・性格の一致不一致といったものを挙げることが(殊に界隈では)一般化されているように感じることが多い。翻って、感情など存在しない、性格など存在しない、その立場から「それ」を見詰め直すことが出来るか、というが肝要だと思う。その過程は自己解体の一翼を担うだろうし、その先がある。
山田は作家の最たる資質として記憶力を挙げた。敢えて大別すると記憶力には二種あるはずで、一つに一般に記憶力と呼ばれるもの、すなわち正答のある問いと向き合うにあたって必要となる知識その他を脳内に迅速かつ大量に注入する力。もう一つに、情景や心情を肌に刻み留め置けるかどうか、それを自由もしくは不自由に想起出来るかどうかという性質。
どちらも再現可能性の話としては軌を一にするが、本質的に真逆で、意識的に、体系的に、包括的に何もかもを脳内に叩き込む作業と、無意識的に、非論理的に、部分的に五感が得た全てを抽出ひいては捨象してしまう性質。
自分に関しては、前者は特段長けているようではないらしいが、後者についてはどうにも強いらしく、至極迷惑している。道を歩くに思い出すことも多く、風に身を晒すに嘆息する心当たりが尽きない。記憶に刻まれた感情というのは払拭しようが無い。厳密に言えば、それを再定義することすら拒みたがる心性が強く働く。その種の懐古主義は何も生み出さない。どうにも、贅沢な話である。