野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
どこまでを当人の責任とすべきか、という命題に関して、たとえばレヴィ=ストロースが、サルトルが、シャレド=ダイアモンドが、ほか無数の人間が、数多の示唆を与え続けてきた。あらゆるものが(社会)構造、あるいは歴史、ひいては存在と不在とに規定されるのであれば、個としてどのように生きて死ぬべきか。大学に入りたての頃に、延々とこのようなことを考えていた。
「でも、自分が朝起きるときに、二度寝するか、眠いけど何とか起き上がるか、そのぐらいの意思と自由はあるんじゃない」
彼女は極めて端的にそれでいて有機質な声で言った。以来、この一言は今までの自分を支える屈強な精神的支柱となった。他人の聡明さに救われたことはあまり思い浮かばず、そもそもで聡明という形容が相応しいなにかをあまり知らない。2,3年に一度ほど何かの折に会う程度だが、とても感謝している。