野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
何かを作ることをしてこなかったなぁと思い至った。厳密に言えば、何かを創り上げることに意識的に努力を重ねたことなど無かったなぁと。
人間の心性としては、極めて雑把に言い放てば、何かを創るのか、保つのか、壊すのか、の3つだと思う。個人単位でも同様で、平野啓一郎が昨年の著書で述べていたように、人間は「本当の自分」など持ち得ず、様々な状況や相手に応じて見せるその人格の構成比率こそが個性である("individual"ではなく"dividual")というのには全くその通りだと思った。この種の議論にはかなり慣れ親しんできたつもりだったが、やはり平野の『私とは何かー「個人」から「分人」へ』は殊勝だし、今後この議論の重要性は増していくと思う。
閑話休題。三者のうち、どれが(比率としてでも)社会的に要請されるかは時代の潮流でしかなくて、別段この三者に優劣はないはずである(そうあるべきである)。昨今ではデザインだのイノベーションだのと名付けて新しいものを生み出すことを礼賛しているが、実は何を壊して何を守るのかということの方が余程大事になってくるのではないかと思う。新しいものを作ればそこにはゼロではない価値が生まれる。ゼロではないなら何かしらの利用価値がある。ただし、往々にして何事においても余白は有限なのであって、新しいものを作ることにばかり意識を向け続けると、そしてその潮流に疑念を抱かず迎合することに慣れてしまうと、新たな余白を作り出すことも、旧い灰色を褐色になるまで置いておくことも、忘れてしまうと思う。
美化された過去を蹂躙してまで、愛でるべき日常を踏み台にしてまで、何を得たいというのか。突き詰めれば死ぬ理由に他ならないのだが、それも所詮は生き抜く理由の裏返しとしてのものでしかなく、傲慢甚だしい。ただ極限まで歩み進んだときに思うのは、一個人の思想として、人間の尊厳の保全というところだというのは自覚があるので、もし予定する職務がどうにも違うようなら医学部でも受け直そうと本気で思うし、そうならないことを弱々しく祈るしかないこのなまぬるく冷たい日常をぶち壊したい。