野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
後輩の女の子が官僚を目指すか学者を目指すかで揺れていた。衝動と呼ぶには浅薄で、気紛れと呼ぶには純度が高い。微笑ましくもあり、先を思うと居た堪れなくさえあった。
自分に関して語ることを(敢えて)すると、やはり、パブリックで在ること、もしくは、真理を探求すること、この二つのいずれかに死のうと思ってはいた。パブリックで在ることの幅がどうにも断じ難く、人間の知の集積に掠り傷を残すことが公的でないかと言われればそんなことは決して無いが、端的に、他者との間の具体性を求めたく「なった」、それだけの話だったのだと思う。加えて、ご都合主義的ではあるが、具体的に、実存的、実際的に何かを求める先に、まさに先述した梅原の言葉ではないが「真理が味方してくれる」、そういう在り方への希望を捨て切れないでいる部分もあるのだろう、楽観主義者でも性善説論者でもなく。
この歳になってやはり腑に落ちる(最近気に入っている言葉)のは、やはりフランクル的な「意味への意志」のこと。運命論でも唯我論でも実存主義でもない。メタな語りをすると、それを受容するに至った時点で、つまり抗うことをしなくなった時点で、腑に落ちている時点で、二皮ぐらい剥けていたのかもしれない。
Mark Twain "Adventures of Huckleberry Finn" の一節 "All right, the, I'll go to hell."以降の意味合いについて再考中。