野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
ふと、何を努力として信じられるかが為人を分けるのだ、と腑落ちした。他人に自分の尺度を当て嵌めたがる人間のその実は、多くの場合、自分の中の努力の「定義」を押し付けているのだろう。世間一般に努力の議論は程度問題や才覚の有無に回収されがちだが、これはもっと根深いのではないかと思う。程度の問題であれば程度を上げる術をテクニカルに準備すればよく助言の余地も具体において多分にあり、才覚の問題であれば猶予を付与するという救いたり得る。
机に向かうことを努力と定義している者もいれば、汗水を流すこと、或いは精神を磨耗させることをそれと定義している者もいる。無論それらは、過去に自分が他人や社会ないし内在化された自己規範によって評価・断罪された経験に依拠するのだろうが、いずれにせよ、不可解なことに、結果の定義の多様性を認めても、努力の定義の多様性は受容されていないのではないか。無論、ここでの努力は過程と言い換えても意味合いは通る。