野村将揮
無題
更新日:2018年10月31日
考えてみれば当然のことなのだが、人は過去そのものに執着するのではなくて、その分岐の先にあり得た「未来」に執着するのだろう。一旦真摯にその「未来」の蓋然性を再検討してみれば、やはり何をか美化したがる心性が働いている/働いていたことに気が付く。
何事も突き詰めて考えれば当時の精神年齢や人間関係その他の環境下においてのみ成立していた産物でしかない。仮にある時点において異なる意思決定を下せていたとしても、その延長線上に現時点から想起できる特定の地点が在り得たとは限らない(というか、ほぼ在り得ない。)。無論、その地点に到達したい/したかったという現時点の心性については、別次元の話として、内破された方がよい(のだと思う)が、これは過去の肯定と未来の再構築という2つの意味で極めて大きな意味を持ち得る。望んでいた未来がいずれにせよ掴めなかったであろう時の流れの中で、今時点において何を望むことを自身に許せる/要請できるのかという価値判断は、為人を超えたかなり根本の何かを支えているように思う。無論、その何かもまた過去によって形成され、そして今なお自身を規定してくるのである。
歳を取った。リアリティは稀薄になり続けている。要らないものはかなり棄ててきた。今は何が欲しかったのかも、欲しいのかも、欲しがるべきなのかも、よく分からなくなってきている。