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  • 執筆者の写真野村将揮

「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」

更新日:2018年10月31日

まどマギ観てきた。メタ=フィクションってのは受け手側の寄って立つ足場を見失わせる(ひいては打ち崩す)から本当おそろしいなぁとつくづく感じた。観客側に「お前は誰だ」みたいな問いを突き付けるのって、ものすっごい神経使うやろうなぁ。誇張でなく、マジで死んでまうからな。

主人公が周縁の存在と協働して、"敵"や困難に打ち克って、めでたしめでたしのHappy End,みたいなプロットのものに久しく触れてないってか触れないようにしてきたけど、「おおかみこどもの雨と雪」(殊勝でした)もまどマギもやはり似ていて、最近こういうの流行りってか潮流としてあるんかな。主体や正義の何たるや、みたいな。時代遅れっちゃぁ時代遅れなのかもしれんけど、その陳腐さ(オーソドックスさ?)は嫌いじゃない。

でも考えてみれば一世を風靡した(そして斜陽した)AKBなんて明らかにそういう演出装置でしかなくて、アレのすごいところは、敵を"不在"のままの状態で仮想上で設定させて、ひいては内在化させるっていうとんでもない転倒を刷り込んでくるところに尽きる。何かと闘ってる少女たちのフィクションに自分を重ねて追体験するファンが、その何かを見定めることもできず(不在なので当然なんだが)、自身の非力さを憂いて投資する。悪いのは俺(≒俺たち)だ、って断罪する基準も視点も突き詰めると無なのであって。もちろん、無は無神論者にとっては神よりずっと強い。(そして、不在と無はまるで意味合いが違う。)

にしても、敵の存在しない闘いに他人を巻き込んで味方に付けて、挙句にその味方に責任を転嫁して(させて)、敵はフィクションの中でさらに強大に、それに相まって他人をさらに強力な味方に仕立てあげる、ってこれはアレやな、常套手段やな。身に付いてしまったらとても厄介。誰も救えないし、救われない。うまくいってるように見えてしまうんやろうけど。

総じてまどマギは劇場で観る価値が十二分にある作品でした。シャフトの全力もさる事ながら、TVシリーズも全て観て、サラリと現代哲学も攫った身からしても、至極見応えのある難解さ。お前は誰だ、ってね。時間が取れなくて映画館に行ったのもかなり久しぶりやったけど、もう一回観たい。何も救いを得られんやろうから行かんけど。

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