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  • 執筆者の写真野村将揮

小さな哲学者の話

更新日:2018年10月31日

彼は、その父親曰く、色んなことを考えすぎてしまう小学4年生だということだった。御年10歳、小さな哲学者だということらしい。

幼少期からサッカーに勤しむ細身に、切れ長の目に二重瞼に、不要な甘えの無い口元。なんとかジュニアにいそうな出で立ちは、我々の仮想敵である。一応は東大で文学と哲学に触れている(お恥ずかしながら嗜むだとか味わうだとかからは程遠い)ということで、先方の願いも相まって、納得いくまで答えるから、なんでも質問していいよ、と言ってみた。

えっと、と視線を机の上に這わせたあと、彼はこっちを見て早口で尋ねてきた。

「お金が無かったら、世界はどうなるの?」

数秒置いて、身震いしたのはいつ以来かと考えてしまった。返答を探すよりもその感覚が先行した。厳密には、思考が止まってしまった。この質問には、いやこの偉大な哲学者には、まだ世界に希望があると教えてもらえたような気さえしたほどだった。

一つに、この資本主義が浸透して久しい日本に生まれて10年間(厳密には11年目だが)を生きた人間が、未だにこのような仮定を純朴に抱けるということ。そして、そのような人間がまだ創られていることは、とても喜ばしいことであると思う。生活には金が掛かる。生まれるのにも、生きるのにも、死ぬのにも、金が必要である。だがその事実とは別次元のところで、人間が自ら無意識的そして構造的にそれを前提し、ひいては内的規範へと仕立て上げている現実がある。傲慢に言えば、自分が彼における上記の事柄についての分岐点、端緒とさえなり得るという自負を以てして、誠実に返答しなければならなかったわけだが、相手の純朴さに比すればもはや恥ずることもなく忌憚無く自分を曝け出すほかなかった。そして、その小さな重みを背負えることもまた、この上なく嬉しいことだと思いもした。

二つに、初対面の人間にこのような質問を投げ掛けることが出来るということ自体が、とても尊いことであるように思う。 これは彼を育んできた周囲の人々、或いは社会の賜物に他ならない。何を聞いても答えてもらえる(かもしれない)、何を疑問に思っても馬鹿にされない(はずである)、といった、自覚さえ無い(当然なのだが)、自我たらぬ自我。これは紛うこと無く、具体的な存在的了解の蓄積によって支えられている。歳を重ねるに連れてその獲得に苦心するのは言うに及ばないところだが、幼少期、青年期にこのように在れることは、誇りとしてよいものだろう。(なお、誰の誇りとすべきかという問題についてはこれから考えなければならないと思っている。)

三つに、これが感動の最たるものだったわけだが、件の哲学的問いの主語が「世界」であったことである。これには目が眩むような心持ちに追いやられた。"僕たち"はどうなるのか、ではないのだ。"日本"はどうなるか、ではないのだ。"人間"はどうなるのか、ではないのだ。無論、それは国家群としての"世界"でもない。世界なのである。「世界を変えてやろう」といった類の言説の主語は、俺、私、私たち、などである。彼の質問はそれとはまるで次元が違う。雑誌の類で散見されるような「21世紀の世界はどうなっていくのか」とも、似ているようで、やはり次元がかなり異なる。世界を主語に、問いを発することができるということ。彼の世界は紛れも無く、全なのである。そしてそれは確実に真理を内包している。これはとんでもないことである。

自分はどうしたかという話なのだが、まず最初に思い浮かんだのが、昨年12月に他人様の家でたまたま目にしたNHKのドキュメンタリー 「ヒューマン なぜ人間になれたのか 第4集 そこでお金が生まれた」だった。貨幣経済の萌芽について概観したこの殊勝な番組企画には、製作陣の熱意と誇りとが確かに感じられ、内容もまた脳裏に焼き付いていた。続いて、世界史で学んだ清帝国の地丁銀制、戦後の金本位制の成立までに軽く触れ、次いで、自分がインドのマザーテレサの施設に出向く中途、マカオのカジノに立ち寄り、経験と思い最低賭け金の2,000円だけチップに変えたところ10分後に10倍の20,000円その5分後に0円となって何も信じられなくなったこと、そして、バラナシには15円の仲介料のために客引きをするホテルマンやがおり、ブッダガヤには3円を乞う托鉢僧がおり、コルカタには幼い弟がいるからと嘘を吐いて粉ミルクを乞うてそれを返品していた6歳の少女がいたことを話した。

彼は終始、真剣にこちらの話に耳を傾け続けてくれた。自身、この二十余年の人生が、視力を落とし腰椎を痛めた暗記作業だらけの受験勉強が、その先に行き当たり自分なりに正答の無い問いを抱いて海外を歩いた経験が、悲観するほどに空虚なものでも無かったのだと思えた。話を終えて自室に戻り眠っていた彼が、帰り際に起きて見送りに出てくれたことが、とても嬉しく感じられた。

翻って、次世代に残すべき教育、人間関係、社会の在り方と、今後の自分の在り方を考えるとても大きな契機となった。誰に尋ねたいわけでもなければ、誰に宣言したいわけでもない。確かめる術も無いだろう。ただ、なんとなく書き残したいと思っただけである。それもまた、とても喜ばしいことだと自分では感じている。一人の大人として、いや人間として、彼に笑われない程度には考えたいと思う。自分がどう生きたら、世界がどうなるのか。

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