生きることと「道」:
追求すべき価値について④
川上博之(32):江戸千家家元後嗣。早稲田大学卒業後、武者小路千家官休庵(京都)にて修業。東京に戻ってからは、東京理科大学公開講座をはじめ、全国各地で茶道を伝え広める活動に従事。

川上:一番ベースにしたい考えは、「お茶をできるだけ質のよい形で伝え広める」ということです。これは自分の仕事や活動の基本としています。
野村:クローズドなままであれば質の担保は比較的容易であるところ、その質を担保しながら広げていく、ということですね。
川上:はい。今のお茶、茶道体験って、どうかな、と思うものもあります。明治・大正と進むにつれて人々が西洋文化に傾いていった中で、当時茶道で生計を立てていた人たちが新しい層に新しい価値観のお茶の訴求に乗り出し、色々試した末に、花嫁修行、お稽古事、作法としての茶道が人気を博すに至りました。戦後、この文脈で茶道を嗜む人が爆発的に増えた結果、女性が作法を勉強する、というイメージが広がっていってしまった。三井物産創業者の益田鈍翁は、川上宗順のもとで茶を学びましたが、江戸からの流れを汲んでいるのはこちらです。世間一般には、正直、誤解されたままの形でお茶が広がってしまっています。そういう意味で、誤解を解いていくために、「質のいいお茶を」と言っています。
野村:国家公務員や政治家は、国や社会をという責任感や義務感に支えられるところがあるのですが、川上さんの中でそういった責任感や義務感はどういった程度でおありでしょうか?それとも、楽しいんでしょうか?「道」を追求している人の精神構造がなかなか理解できない人も多いと思います。
川上:小さい頃から「最終的にはお茶の世界に進むのだろう」と考えていた理由として、江戸千家でお茶をやっている人が家族以外にたくさんいて、親戚みたいな距離感から期待してくれていたということがあります。あの人たちの期待に応えたいという想いは強く、修行中も帰ろうかと思ったこともあったのですが、こういった方々の顔が浮かびました。
野村:現代アートの世界で「旧態依然とした世界に一石を」「世界に日本文化の素晴らしさを」といったことを言う人は少なくありませんが、どこか苦しそうな人が多い印象です。一方で、川上さんはそういったところが全然ないですね。
川上:剣道っていう世界も、いわゆる日本の「道」の世界の典型例と理解しています。掃除から始まり、型の反復というイメージです。表面的にはロジックから逆行する部分も多い世界だと思いますが、東大、官僚とすごくロジカルな世界に身を置かれた野村さんが20年以上剣道を続ける中で、批判的になることはなかったのでしょうか?
野村:昨日大学で稽古してきて、後輩に助言する中でいくつか感じたことはあります。まず、剣道における理合を言語化できる人が圧倒的に少ないなぁと。理合を体現している人は数多くいるものの、言葉を通して人の理解を促せる人は相当少ない。逆に言えば、言語化できる人が少ないならば、極限まで追い込んで身体に覚えさせるしかない、という発想に至る人がいることも論理的には理解できます。
少し話が飛躍しますが、多様性の議論をするときも、「何が自己目的化されているか」をきちんと理解しなければならないと感じています。個性として尊重されたいという気持ちがあるのは自然なことですが、「多様である」という命題を目的化して掲げ続けても、何も実現も獲得もされません。目的ではなく、言葉が難しいのですが、敢えて言えば過程に近しいのではないのかなぁと。
剣道の話に戻すと、敢えて型に嵌めて10年、20年と稽古を蓄積した末に、ある種の境地に達するということもあるらしいというのは感じます。そうでなければ、色んな「道」や「形」が何百年も残るなんてありえなかったはずなんですよね。そういった境地を志向する人、そして到達する人が、これから圧倒的に減っていくんだろうなという感触はあります。
川上:いまの世の中でこれが正しい、と言われている方向性を突き詰めた先はある種のディストピアだと感じますし、そう感じても口に出しにくいとも感じます。いまのお話を聞いていて感じたのが、禅宗の考え方にすごく似ているなぁと。禅宗の修行の目的の一つが悟りの境地ですが、これは精神の状態なので、言語で伝えようが無いんですよね。だから、悟りに至ったとされる人と同じ修行体験をやればいいんじゃないか、ということになる。だけど、いざ始めて見ても最初は何も見えないから、なんでやってるんだ、となってしまう。
野村:もちろん、全ての人が悟りや真理を目指す必要はないと思うのですが、そこを目指す人がいなくなると、文化ひいては人類が衰退していく気もしています。剣道は精神性の勝負で、数ミリ単位の攻め、つまり呼吸、視線、重心、間合いといったものの機微の中で、おそれを抱いたら打たれるし、おそれを抱かず理合を守れれば打てる。僕の練習量は中高生当時より圧倒的に減りましたが、強さで言うと次元が違うぐらい上がっています。でも、それも突き詰めると、何十万回も竹刀を振って基本の技、つまり型を身につけたからに尽きます。と言っても、所詮僕ごときでは、勝ち負けの次元でしかなくて、これが七段、八段となると、自他の全てを発揮させ合うみたいな境地があるらしいです。素直にすごいなって(笑)。俯瞰すると、この畏敬は自分の中でも大事にしたいですし、この類のものを抱けること自体に感謝というか、ありがたさを感じてもいます。
本日はどうもありがとうございました。【了】冒頭に戻る